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いつまでも子どものままで

「LA LA LAND」と「二人セゾン」

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(文中にネタバレあり)
「ラ・ラ・ランド」を観た。このブログは、比較対象として欅坂46の名曲「二人セゾン」をとりあげながら、「ラ・ラ・ランド」の面白さについて書こうとしている。いかんせん映画に対する教養があまりなく、ふんだんに取り込まれたというオマージュがほとんどわからなかったので、なぜかアイドルの楽曲とくらべてしまった。どうしても何か書きたかったのだが、書こうにもこれしか方法がなかった。どうか全体的な荒唐無稽さにはお許しいただきたいです。

四季:春夏で恋をして/秋冬で去っていく

フランスのミュージカル映画シェルブールの雨傘」のオマージュだそうだが、この映画は4つの季節ごとにシークエンスをはっきりと分けている。そしてそこで描かれるテーマはかなり明確で、ほとんど4つの季節が持つイメージをそのままストーリーに重ねている。互いに苦境に立たされていた冬に二人は出会い、春夏で恋をして、秋冬で別れるのである。「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」と歌う「二人セゾン」そのままである。
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四季は、何度も繰り返す永遠の象徴である。冬が終わり、春が来る。夏が終わり、秋が来る。そうやって四季は繰り返していく。大林宣彦がどこぞにロケに行ったときに、特殊な気候のお陰で、左に柿がなった木が、右に満開の桜の木が並んでいるという奇妙な背景を目の当たりにしてなんかすごく変な(確かどちらかというとネガティブな方の)気持ちになったという話をどこぞに書いていた。こういう季節の循環に狂いが目に見えたとき気分が悪くなるのは、「永遠性」のゆらぎを感じるからなのではないかと思う。「ラ・ラ・ランド」もその四季を構成に入れていることから、永遠を想起させる作品だ。ただし、その永遠は、不変を意味するわけでない。四季は永遠だが、永遠に変化を繰り返すのである。

夜明け:繰り返される永遠の象徴

ミュージカルを扱った映画なので、音楽がふんだんに取り入れられている。そして、その作中の音楽の歌詞がいい。もともとの英語の韻文も聴き取れる範囲だけでも気持ちがいいし、和訳したあとの言葉選びにも、多くの人がどこかしらで魅力を覚えるのではないだろうか。詞の内容はありふれたテーマなのだろうけど、言葉が音楽に乗ったときに異様にパワーアップするあの感じが、そのまま伝わってくる。冒頭流れる「Another Day of Sun」の

And when they let you down You'll get up off the ground
'Cause morning rolls around And it's another day of sun

なんて、わかりやすい。夜明けのモチーフが歌詞に取り込まれてる音楽ってやっぱりグッとくるものが多い。
新たな一日のはじまりは、希望の象徴である。そして同時にある人間にとっては「また嫌な一日が始まる」という絶望の象徴でもありうる。一日の始まりを告げる夜明けは、そういう風にいろいろな人々の希望と絶望を、毎日呼び起こす。毎日。でもその希望や絶望は「どんなに辛い毎日でも明るい光はやってくる」「こんなにつらい毎日が、また朝から始まる」と、永遠に繰り返される日常があるからなのではないだろうか。夜明けとは、つまり永遠の象徴なのである。
先に引用した一節が流れる、冒頭の高速道路での大渋滞のなかでのミュージカルシーンは夜明けでもなんでもないが、ミアとセブの出会いは、夜明け前のバーである。そしてそのあと、二回も三回も、何回も奇遇にも出会う。二人の恋は、永遠を予感させる夜明け前にはじまるのである。
先の「二人セゾン」もまた、一番Bメロにこんな歌詞がある。

太陽が戻ってくるまでに 大切な人ときっと出会える
見過ごしちゃもったいない 愛を拒否しないで

恋は、永遠を予感させる夜明け前に始まる。そしてそれは繰り返されていく(最後にはミアとセブは別れるし、『Another Day of Sun』の冒頭も、男女の別れから始まっていることを思い出そう。この映画は、直接的にではないものの、確かに循環している)。こんなところでも、「ラ・ラ・ランド」と「二人セゾン」は奇妙に一致する。

映像の繰り返し:同じだけど、何かが違う

夜明け、季節といったモチーフをうまく利用することで、「ラ・ラ・ランド」も「二人セゾン」も、「繰り返し」の美しさを効果的に感じさせる作品となっている。「循環」(『二人セゾン』のサビを聴いていると、永遠にそれが続いてほしくなるような快楽があるが、ここは『今夜はブギー・バック』や七尾旅人『サーカス・ナイト』と同じ甘美な循環コードだ)とか「永遠」とか言ってもいいし、人によっては「諸行無常」と表現するかもしたほうがわかりやすいかもしれない。しかしここでは「繰り返し」という言葉にすべてを集約させることにする。「ラ・ラ・ランド」は、さらなる表現でこの「繰り返し」をよりドラマチックにしてしまうからである。どういうことか。
この映画は、映像もまた、「繰り返す」のである。作中でミアとセブは「理由なき反抗」を一緒に観るのだが、その上映は中断してしまう。しかし、その後、さっきまで見ていたはずの「理由なき反抗」とほぼ同じカットが流れ、そのままミアとセブはグリフィス天文台でファンタジックな時間を楽しむ。中断によって潰えた物語中の物語「理由なき反抗」は、同じ、でも少し違う映像の繰り返しによって物語「ラ・ラ・ランド」を次へと進めるのである。そもそも、過去の名作へのオマージュがふんだんに取り込まれたということでも話題になっている本作だが、オマージュとは、過去の表現手法をそのまま「繰り返す」ことでもある。
ラストシーンもまた、同じシーンの繰り返しによって印象的に描かれる。5年後の冬(別れの季節!)、ふと夫と立ち寄ったバーで偶然にもステージに立つセブに遭遇するミア。セブの演奏が流れると、それに合わせて、それまでに観客の私たちが観てきた過去の二人のシーンが繰り返される。しかしそれぞれのシーンは、さきの「理由なき反抗」のオマージュと同じように、確実に何かが違う。映画の序盤で出会った際には肩がぶつかっただけだったミアとセブが、出会い頭に熱いキスを交わす。彼らの関係を崩壊させる一因ともなっていたはずのキースとの仕事もあっさりと断り、客もまばらで大失敗に終わったはずのミアの一人芝居の公演は満員御礼で大成功となる。そして、ついさっき見たばかりの高速道路に降りるカットがもう一度流れる。そして先のバーに入っていくミア。しかし、そのミアの隣に並ぶのは、さっき見たばかりのカットに写っていた男ではない。セブだ。
シチュエーションはまったく同じ、なのに起こっていることはまったく違う映像が立て続けに流れ、やがて「こうあり得た未来」が、セブの演奏に合わせて映し出されていく。映画の中で、これも何度も繰り返し使われてきたピアノリフ(そもそも、リフって言いたくなっちゃうくらい、このピアノリフは、聴いているとなぜか延々と続く感じがする!)から、いつの間にか音楽は、映像の中の「こうあり得た未来」に合わせて、ドラマチックに転換していく。ミアはセブの子どもを妊娠し、二人はともに夢だったバーを経営している。

あまりに印象的なラストシーン

彼らは、何度も繰り返される夜明けと、そして何度も繰り返される四季とともに、生きてきたはずだった。しかし、その生をまた別の形で繰り返して生きたとき、そのあとに訪れる未来は、まったく違うものになっている。「繰り返す」ということは、そんな単純なものではない。繰り返す日常のなかでの些細な選択が、何かを大きく変えていく。これもまた、「二人セゾン」の

一瞬の光が重なって 折々の色が四季をつくる
そのどれが欠けたって 永遠は生まれない

の一節を想起させる。ラストシーンだけで、「二人セゾン」が描こうとしていたものを、より象徴的に、そしてあまりに印象的に描き出す。作中で嫌そうに会食をしていたお偉いさんと結婚した現在のミアと、「こうあり得た未来」におけるセブとともに生きるミア。それまでヴィヴィッドな色合いのドレスを身にまとった姿が印象的だったミアが、このラストシーンでは黒いドレスを着ているせいか、そのコントラストはあまりに強烈だ。しかしその展開と、それを見せる映像のあまりの美しさを前にしては、現在のミアを卑下することなど到底出来ない。
これを観て映画館を出て一番最初に、何に思いを馳せるだろうか。過去を悔やんだり懐かしんだりするか、未来を見るか。それともいまの自分と向き合うか。夢か、恋か、あるいはまた別の何かか。たぶん人それぞれ、まったく違うことなのだと思う。しかし、こういった繰り返しのイメージが、何かに思いを馳せてしまうこの作品をより力強くしている。わずか二時間ちょっとの観賞時間で、人間の一生、あるいはそれ以上のスケールの大きなものを見せられたようだった。

二人セゾン

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ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック

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