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いつまでも子どものままで

「たかが世界の終わり」と家族


『たかが世界の終わり』予告編

グザヴィエ・ドラン(ずっと「クサヴィエ・ドラン」だと思っていた…)「たかが世界の終わり」を観た。
前日、東京で一個予定があったあと、横浜で両親と会うということになっていて、どこかで合間で映画でも観たいなと思っていた。もともとは新宿でSiSのドキュメンタリーを観るつもりだったが、上映時間がレイトショーの時間帯だけだったので、その時間には横浜にいなければいけなかったので泣く泣く断念した。横浜まで来てから何か観たいなと思って調べていたら、次の日の日中ちょうど観れるということで、夜は両親と久々に団欒し、そのまま一緒にビジネスホテルに泊まって、次の日に観た。前々からグザヴィエ・ドランの作品について「一度観て感想を教えてほしい」と友人に言われていたので、ちょうどよかった。

親元を離れ作家として活躍する主人公ルイは、12年も実家に帰っていない。しかし自分の命が長くないことがわかり、それを伝えるために久々に実家に帰ってくる。そこで過ごした一日を描いた作品である。
フォーカスされるのは、「死期が近い主人公」ではなく、家族との会話そのものである。しかもその会話の内容もまた、ルイの告白ではなく、他愛もないものばかりである。しかし、家族の会話はいちいち不穏で、どこかで暴発しないかビクビクして観ていなければいけない。同じ部屋で誰かと誰かが会話していると「どうせその話はコイツは興味がない」とか「またその話か」とか言って誰かが入ってくる。そしてそのあとでそれを遮るように「黙ってて」とか「なんでそうやって突っかかってくるの」とか返すと、いつの間にか会話が喧嘩腰になり、その空気感を察した誰かが別の話題を持ち込む。会話は破綻し「しっかりと終わる」ことがない。ワンシーンだけ、O-ZONEの「恋のマイアヒ」がラジオから流れた瞬間、母が「エアロビのときに流れている音楽だ!」と興奮気味に踊りだすのだが、そのときシュザンヌがかろうじて合わせて踊ったときだけ、なんとなく家族の調和がとれているような箇所があるが、それさえも音楽の大きさや、映画の作風に見合わぬ選曲に、気味の悪さを覚える。
会話が破綻し、暴発しない限りは、よくある家族の会話なのだが、全体的に、なんか暗い。主人公の命が長くないという情報と、あとはBGMのセレクトの問題だと思う。前日日中に会った方に、どこぞの小劇団で、同じ会話のシーンを何回も繰り返すんだけど全部違うBGMにするだけで会話の内容が様変わりするという演出をやっているところがあってそれが面白い、という話を聞いたのと、友人から聞いていた「グザヴィエ・ドランの音楽の使い方はヤバい(おそらく肯定的な意味でだと思う)」という事前情報があったから、なおさらそう思う。そう考えると、映画における主題歌やBGMの選曲はかなり重要だ。
でも、久々の家族との会話というのは、本当にそのままこういうものなんじゃないかと思う。前日に家族が集まって久々に外食をしたときの会話も、ほとんどこの映画のままだった。別にうちの家族は「ヤバい」人間は誰一人いないと思う。ただ、なまじ「家族である」という認識があるだけに、思ったことをそのまま喋ってしまっていいと思っていると、会話の相手を非難するような言葉を簡単に発してしまうし、それを聞いた相手も感情的になってもいい会話だという認識があるのでそのまま感情的に喋ってしまう。そのまま会話は暴発し、後味の悪い感じで話が終わることなく途切れてしまい、なんとなくまた次の話題になる。だいたい会話の中身にはほとんど意味がないし、それが完全に終わるということもない。家族の会話って、9割くらいそんな感じなんではないだろうか。
こういった会話は、自分の思い通りに会話が進まないどころか、確実に悪い方向に会話が転んでしまうことがわかっているので、僕はあまり加わりたくない。だが、そういう風にしているとフラストレーションがたまるし、せっかく久々に家族と会っているのに話さないなんてもったいないなあと思うし、何よりなんだかこの歳になってもいまだに両親と仲良くいられない自分がみっともないという後ろめたさなんかも覚えるようになってしまう。それでなんとか会話に加わろうとすると、自分にそのつもりがないのにどうしても会話を暴発させる一因になるので、余計に自分がみっともなく思え、気分が悪い。だいたい家族に会ったとき、日によってほとんど黙ってる日とそうでない日があるが、どちらにせよ誰のせいでもなく気分が悪くなるんだから気分が悪い。
だからか、映画の主人公ルイは会話のほとんどで聞き手にまわり、自分の返答を求められている言葉に対しても、二言三言でしか返さない。母親も兄も妹も、ルイのことを「よくわからない」と言っている。でも、久々に会っているという状況ならなおさら、よくわからなくて当たり前だと思う。家族はみな「わかりあえているはず」「わかりあえていなければいけない」という幻想は捨てないと結構キツいんだと思う。
兄弟揃って車でタバコを買いに行く車中の会話のシーンは、家族(というかもはや人間同士さえ含んでる)の「わかりあえなさ」を露骨に描いている。深夜の便の飛行機に乗ってきたから、まだ夜も明けない朝方に到着した主人公は、家族を驚かせてはいけないと適当な時間になるまで待っていた、という他愛もない話をするのだが、劇作家特有の言葉遣いが鼻についたのか、それに対して揚げ足を取るかのようにつっかかり、「だからなんなんだ。上質紙に赤い印字がされた経済誌でも買って読んだのか。ポテトを揚げていたから服に臭いでもついたのか」と、そのあとの会話の内容さえバカにするように怒鳴り立てる。ほとんど兄の弟の話を聞く態度には、弟を理解しようという姿勢は(一度それを見せようとはしているものの)ほぼない。にもかかわらず、兄は「ほうっておいてほしいというときもある。わかるだろ」と、弟には理解を強いる。
とはいえ、弟のルイもまた、兄アントワーヌ、あるいはそれ以外も含んだ家族たちの気持ちを理解しきれてはいないはずだ。完全に別の話になるが、少し前に平野啓一郎の『空白を満たしなさい』を読んだ。三年前に死んだはずがなぜか生き返ってしまった主人公。家族のもとに戻っても、職場に戻ってみても、どこか関係がぎこちない。戸惑う主人公に対し、友人や上司が「お前がいない間、みんなはお前がいなくなった穴を埋めてきたんだ。そこにお前が戻ってきたんだから、異物が入ってきたのと同じ状態で、ぎこちないのも当然だ」といった話をする。ルイは自分がいない間に「穴が埋められている」ということをわかってはいるがどうしたらいいかわからないまま、家族たちと話していたのではないか(実際、その抜けた穴にするりと入ってきたように、12年ぶりの帰郷に際しいた新しい登場人物である兄嫁に対して、ルイは最初に会話する)。
とかく、家族だろうが、長い間会っていないんだからそりゃあすれ違いだってある、という話だけなんだと思う。でも、たかがそれだけの話を、これだけシリアスに描いてこんなにかっこいい作品の存在は、「たかがそれだけのことで悲しんだり悩んだりしてもいいんだ」という慰めみたいなところがあって、すごくいい映画だった。