読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

b

いつまでも子どものままで

最近邦楽しか聴いていない

日記

最近邦楽しか聴いていない。高校生の頃英語もよくわからず海外の音楽を多く聴いていたけれども、結局は邦楽のほうが直接的に歌詞が耳に入ってきてちゃんと理解できるから好きだ。冒頭「最近」と書いてみたはいいものの、結局のところここ10年、どっちかというと邦楽しか聴いていないと言ったほうがいいのかもしれない。
日本語と英語は違う。同じ気持ちを表現しようとするとき、詞だけでなく会話においても、日本語での表現でさえ多様な表現があるわけだけど、英語での表現に視点を広げると、英語だからこそのさらに多様な表現がごろごろある。ように思う。僕は英語詞は聴き取れないので、たまに歌詞を読んでみたりしてそれを知る程度で、英語表現の妙を語るほど英語が得意というわけではないけど、それでも英語での表現も面白いなと思えるのだから、本当に言語の違いは表現の違いがあって、それは相当おもしろい世界が広がってるんだろうと思う。
レディオヘッドの「KID A」や、いまであればフランク・オーシャンの新作のように、世界中の音楽ファンがこぞってそれに注目する、といった文化圏とはかなり離れたところに、日本はあると思う。そもそも表現手法の問題だけでなく、オリコンチャートなるシステムや業界の構造そのものが世界のそれとはかなり発展の仕方が異なっている以上、かなりしょうがないと思う。使い古された議論だが、90年代後半、スーパーカーナンバーガールくるりなどが登場し、それらがロキノン系評論家たちにこぞって評価されたのには、そういった日本独自の文化圏においてもまた、先に挙げた日本独自的でないしかしそれでいて日本的な新たな表現手法ができることを示したからなのだと思う。
特に2010年代以降の日本においては、こういったアーティストの登場はほとんど当たり前になった。YouTubeとApplemusicのおかげで、15年前に登場していたらその存在が僕の耳に入ることはなかったであろうアーティストたちのかっこいい音楽を聴いたりしながら、いま僕は生きている。サチモスは月9で使われるようなバンドになったし、大学生のFacebookを見ていたらサチモスのメンバーみたいな男がかっこよく、サチモスのメンバーみたいな大学生とセックスしていそうな女がかわいいと思うので、たぶん若者文化のなかに、かつて日本にはないと嘆かれていた文化(なんて表現したらいいかわからない)が明確な言葉なくしても浸透しているのだろう。
海外の音楽を聴かなくとも、海外の雰囲気や情緒を含んだ音楽が日本で豊かになってきた。だから邦楽しか聴かなくなった。ちょっと前にカッコいいと思って聴いていた海外の音楽は歌詞がわからなかったからいろいろわからなかったけれど、いまは普通になんとなくオリコンチャートとは別のところにある、少し流行りのバンドとかを聴いていれば、歌詞がすんなり入ってくる音楽が聴けるから、いい。でも、なんか大事なものを失っちゃった気がするので、ちゃんとフランクオーシャンの新作でも聴こうか。