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いつまでも子どものままで

サードプレイスvsショッピングモール(消費社会の生き方)

 最近はとても忙しかったが、久々に休みができた。フランス語の中間試験も終わり、とりあえず切羽詰まった感覚が抜けて時間もできたので、ブログを書こうと思う。
 いまは社会学のゼミでイ・オルデンバー『サードプレイス』という本を読んでいる。

 「家=ファーストプレイス」でもなく「職場=セカンドプレイス」でもない「とびきり居心地のいい場所=サードプレイス」が現代のアメリカにはない!みたいなことを言っている本で、とても面白い。しかし実際、ゼミで一緒に学ぶ学生たちは、「サードプレイスなるものが欲しいか」という議題に対し、多くの人が「いらない」という意見を持っていた。私は「サードプレイス」なるものに該当するであろう、行きつけのバー・飲食店みたいなものはあるので、「サードプレイス」を擁護していきたい気持ちもある。しかし、「すごいいいものだよ!」と言われると、なんだかいらないかな、と思ってしまうあまのじゃくな気持ちも、確かによくわかる。なので、ここでは偽悪的に「サードプレイス」批判を試みたい。

 オルデンバーグは、商業主義に堕したショッピングモールのせいで、サードプレイスがアメリカでは失われていると批判する。

グルーエンは、アメリカ初の屋根つきショッピングモールを発案し、設計した男だ。その彼が「ショッピングモールの父」を拒むようになったのは、自分の計画が、身も蓋もない商業主義一辺倒へと変容されてしまったからである。彼が思い描いていたのは、本当の意味でのコミュニティ・センターだった。

レイ・オルデンバーグ,2013,『サードプレイス』p13,みすず書房

 郊外の用途別区画によって「顔役」に取って代わったのが、ショッピングモールや歓楽街の小売業者とその従業員だ。こういう人びとが働くチェーン店は、地元の商業施設を全滅させることで繁盛し、チェーン店の経営者たちは、「顔役」とちがってコミュニティのためになることを何もしない。

同書p20-21

 わたしたちは、財力が許すかぎり大きくて蓄えの十分な家に住んでいるが、そこからたびたび逃げ出したくなる。おおかたの人にとって唯一の実際の手段は車であり、おおかたの人にとって唯一の現実的な逃げ場はショッピングモールと歓楽街だ。そこでは買い物をしてお金を使うことが期待される。アメリカ人はヨーロッパ人の三倍から四倍の時間を買い物に費やすが、その違いのほとんどではないにしても多くは、ほかに選択肢がないことと関係がある。わたしたちアメリカ人は、自宅の近所でお金をかけずに親しくつきあう手段をみずから禁じてしまった。

同書p26-27

 これに対し、「ショッピングモール」によって潰されてきた「サードプレイス」は、オルデンバーグによれば夢のような機能を兼ね備えている。列挙すると以下のような感じだ。

  1. 社交の場として、目新しさや心の強壮剤、友達集団などを提供する
  2. 政治上民主主義の公開討論の場となり、全体主義に抗うアジトにもなる
  3. 良識が重視された場なので、取り締まり機関として機能する
  4. 鬱憤がたまるのを防ぐ
  5. 自然発生的な監視を行う(*1

 確かにヨーロッパのパブやクラブ、カフェなどはそのような機能を有していた、という指摘は、たとえば『クラブとサロン―なぜ人びとは集うのか (BOOKS IN・FORM)』など、国内外でも数多い。しかし、「こんなに豊かな機能がある場所なんて、あるの!?」というくらい、現代には想定できない「観念的な場所」として「サードプレイス」は理解されてしまう。オルデンバーグが批判したショッピングモール=消費社会においては、そのようなものが、確かにありはしても、大量に発生し持続することはなかなか想像しにくい。そして、消費社会に適合した個人主義の現代人たちが、サードプレイスを欲することも想像が難しい。

 消費社会を肯定的に読み解くタイプの学者やライターというのは意外と多くいる。たとえば僕がオルデンバーグの批判を読んで思い出したのが速水健朗であった。速水は、ショッピングモールが社会学者や建築家から嫌われている一方、ショッピングモールを研究せずして現代都市は語れないという問題意識から、都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)を書いた。同書で速水は、駅前商店街の衰退は1970年代だが、ショッピングモールの建設ラッシュは1990年代であり*2、オルデンバーグのような「ショッピングモールによって古き良き街が潰えた」という批判は無効である、という反論を行っている。また、同書には「1990年代から多く生まれたコインパーキングが結果的に治安の問題の残る廃墟などの場所を有効活用することにつながったのと同じように、新自由主義がもたらした競争原理が、土地の有効利用につながり、崩壊した都市の再生を成功させた」(*3)とも書かれている。これはショッピングモールへの「擁護」と読み取ることができるだろう。確かに速水の言うとおり、消費社会が浸透しきった社会において、オルデンバーグのような消費社会=ショッピングモール批判は、あまり強い有効性を持たないのかもしれない。

 しかしその一方で、明らかに現代人たちは豊かなはずなのに、苦しみ、疲弊している。オルデンバーグはクローディア・ウォリスの「アメリカで売れ筋の薬品の上位三種が、潰瘍薬(タガメット)と高血圧薬(インデラル)と精神安定剤バリウム)だというのは、嘆かわしい時代の趨勢である」という言葉を引用し、社会の生きづらさを表現している(*4)。アメリカナイズドされ、年間三万人が自殺する日本にもこの問題はしっかりと根を張ってしまっている。これは非常に難しい問題だ。消費社会を受け入れざるをえない私たちは、どのようにしてその憂鬱を晴らしていけばよいのだろうか。

tofubeats - ディスコの神様 feat.藤井隆(official MV) - YouTube
 先日tofubeatsが発表したディスコの神様(通常盤)、ゲストボーカルに藤井隆を迎え話題となった一曲だが、この曲の発売に際し、tofubeats本人がインタビューでこう語っている。非常に面白いので、関連箇所をすべて引用しよう。

――では、今回のEP『ディスコの神様』について。表題曲は藤井隆さんをフィーチャーしているわけですが、この人選は?
tofubeats 藤井さんに関しては、そもそもメジャーに行く前からずっと呼びたかったんですよ。もう、それに尽きるんです。それまでも藤井隆さんは普通にファンだったんですけれど、去年に松田聖子さんが作詞・作曲・プロデュースをした『She is my new town』というシングルをリリースしていて、それが決定的でしたね。
――あれはすごくいい曲でしたよね。
tofubeats あれがもう、衝撃的だったんですよ。ビデオから曲からアートワークから、もう最高で。去年に出たJ-POPの曲の中でもダントツに好きでしたね。しかも、「ニュータウン」という言葉を歌詞に入れてくれというのは藤井さんからの要望だったということを知って。それから藤井隆さんのインタビューとか著作を読んで、「この人が思っているニュータウンというのは自分がやりたいと思っているニュータウンの感じに近いのでは?」と思って。そこでやっと今回タイミングが合って、実現した感じですね。
――なるほど。そういうところからも、一緒にやりたいとずっと思っていた。
tofubeats 僕も神戸のニュータウンですけど、あの人は大阪の千里ニュータウン出身なんですよね。そういうのもあったし、あの人の趣味を探っていったりして「この人とはもしかしたら趣味が合うかもしれない」と思っていて。

インタヴュー | tofubeats

――その「ニュータウン的な感覚」というのは、改めて紐解いてもらうと、どういうものなんですか?
tofubeats 僕が独自に研究を進めてるんですけど、日本でニュータウンのことを歌っている曲というのはあまりないんですよ。キリンジの“エイリアンズ”はその数少ない曲で。で、藤井さんはキリンジで一番好きな曲は“エイリアンズ”だって言うんですよね。それがまさにだと思うんですけど。僕らは郊外のニュータウン出身なんですけど、そこには自分が生まれたところに歴史や文化が不在な感じがあって。そこに何かしらの回答を出さなきゃいけないなと、僕は思ってるんですよ。
――なるほど。東京だって基本的には歴史のある町ですよね。
tofubeats そうなんですよ。しかも最近勉強して知ったんですけど、東京の「郊外」と関西の「郊外」は少し違う単語として扱った方がいいんですよね。どの街でも、基本的にお金持ちって海抜が高いところに住むじゃないですか。で、東京は海抜の高い低いが連続して連なっているから、アクセスできるんですよ。それこそ「ダウンタウンへくり出そう」って言える。
――なるほど、そうですね。
tofubeats でも関西って、そうじゃないんですよね。海に向かって海抜が下がっていって、それに従って所得も変わってくる。阪急沿線に住んでると金持ちで、阪神沿線に住んでるとそうでないみたいな感じで、大阪の真ん中の一部を除いて、基本的には分断されている。そういうところで、都会から切り離されたニュータウンの開発がされたんです。その、日本で最初に作られた「千里ニュータウン」出身が藤井さんで、その千里ニュータウンをモデルに作られた「西神ニュータウン」出身が僕です。だから、藤井さんと最初に会ったとき、そのニュータウンの曲もすごい良かったし、自分が5年間くらい「dj newtown」名義でマルチネからリリースしてたから、ニュータウンについてのミドルテンポのしっかりした曲を作りたいと宣言して、この曲を渡したんです。
――どういう反応でした?
tofubeats これ、結局「ニュータウンから出たい」って歌なんですよ。つまらないところから出たいけど、結局出ない、みたいな。そういうことを言わずに藤井さんに渡したら、「この曲は家を出ない曲なんですね」って返事が来た。
――それはすごい!
tofubeats 「この人は完璧だな」と思いましたね。それは一番嬉しかった。音楽好きだからこそ、本質をとらえてくれるという感じもしたし。レコーディングの前にそういうところも共有ができて、本当によかったなと思ってますね。
――そういうニュータウン的な感覚と、ディスコ感や景気のいい感じは、どういう風に折衷させたんでしょう?
tofubeats いや、絶対折衷しないんですよ。「ディスコの神様」って言ってるけど、自分のスタンスとしては、結局ディスコも今はないし、神様も頼りにならないと思っていて。でも、何かをお願いする対象としてはいいかな、という感じなんです。藤井さんの時代はなかったと思うんですけど、今はニュータウンのどこの駅前にもTSUTAYAがあるんですよね。で、同じ音楽が好きな友達はいなかったけど、ただ自分の好きな音楽を部屋で聴いて、その時間だけは楽しくてちょっとやり過ごせた。自分にとっての音楽がそういうものだったので、自分もそういうものを作りたいなというのはあって。だから無闇にアッパーなんですよ。

インタヴュー | tofubeats

 tofubeatsはこのインタビューに限らず、自分が「郊外」に住んでいたからこそいまの音楽がある、といった主旨の発言を繰り返している。「暇で死んじゃいそうな僕を助けてよMUSIC」と歌う「ディスコの神様」のように、決して「パーフェクトに楽しい」わけではないけれど、好きな音楽で一人で踊っていればなんとかやっていける。この記事のインタビュアーである柴那典が「ディスコの神様」を「ハッピーで高揚感たっぷりで少しセンチメンタルな、彼の本領を発揮した一曲」と評したのは、「パーフェクトではないけれども、一応ハッピー」という感覚に一種の切なさを見出したからなのだろう。
 消費社会を生きる私たちは、「ドーン・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カット プレミアム・エディション [DVD]」さながらゾンビのように惰性で消費をし続けているわけではない。消費社会において消費の対象となるアイテムには、それ相応の文化を流し込むことができ、そして私たちはその文化を享受することができる。レイ・オルデンバーグは「自分自身や人生の重苦しさを笑い飛ばせることの大切さなど、いまさら言うまでもないだろうが、多くの人はその能力に欠けている」(*5)と言った。だから「サードプレイス」が必要というわけだ。しかし、笑い飛ばせる能力がないく、家をでないからこそ苦しみ、楽しみ方を必死に探し、挙句に生まれた、いわば「苦しみの文化」がある。この「苦しみの文化の享受」も、ショッピングモール的な現代社会を生きる私たちへの一つの「処方箋」たりえるのではないだろうか。

 この議論に國分功一郎を援用しよう。彼は『暇と退屈の倫理学という本で、西多正規の「定住革命」なるワードを引用しながら、人は定住生活をはじめたことで退屈するようになってしまったと書いている。オルデンバーグはこれと似た形で、かつては狩りや魚釣りをしていくなかで目新しさが見出されてきたが、近代の仕事は機械的で目新しさがない、日常生活はそれ以上に目新しさがない。だから目新しさを兼ね備えたサードプレイスが必要だ、と展開する(*6)。これはその通りだと思う。しかし、サードプレイスが「ボア」(*7)を受け入れないと書いてあるように、阻害されてしまう人びとは確実に存在する。そのような「ボア」になりうる惨めな私たち(?)が消費社会を生きていくことを考えるには、國分が提示した処方箋が有効だ。
 彼は暇と退屈について様々な観点から議論を進めたのち、こう結論づける。ボードリヤールが『消費』と『浪費』を区別したが、消費社会を生き抜くには、消費ではなく浪費=贅沢を楽しむことが重要だ(*8)。この「浪費」について國分は、衣食住を楽しみ、芸術や芸能や娯楽を楽しむ*9ことだと言っている。この國分の「浪費」は、先ほど提示した「文化の享受」に該当するのではないだろうか。
 國分の議論における「贅沢な暮らし」なるものは、一歩間違えればそれがただの消費に堕落する可能性を秘めている(*10)点で、処方箋として適切でありながら、常に堕落の恐怖・不安と隣り合わせのスリリングさをも持っている。いわば諸刃の剣のようなものである。しかし、このように郊外=消費社会=ショッピングモールを生きる「苦しみの文化」を提供してくれるミュージシャンが具体的に少なくとも一人いるという事実は、どこか安心感を与えてくれるような気がしている。
 先に引用したように、ショッピングモールの父・ビクター・グルーエンは、商業主義化したショッピングモールを嘆き、自らが「ショッピングモールの父」と呼ばれることを嫌った。しかし、ウォルト・ディズニーが晩年「失われた歴史ある街」を取り戻すべく、ショッピングモールの視察を行い続けていたというエピソードもある(*11)。消費社会的な街並みの問題は結局のところ「歴史・文化・贅沢さ」の欠落にあった。だとすれば、その欠落したものは「サードプレイス」があればなんとかなる!といった身も蓋もない議論をするよりも、「欠落したものをいかに補うか」といったことを考えるべきなのだろう。
暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

*1:イ・オルデンバーグ,2013,『サードプレイス』,第3~4章要約,みすず書房

*2:速水健朗,2012,『都市と消費とディズニーの夢』,p54,角川書店

*3:同書p22~24,p34,p139

*4:イ・オルデンバーグ,2013,『サードプレイス』,p50~51,みすず書房

*5:イ・オルデンバーグ,2013,『サードプレイス』,pp112,みすず書房

*6:同書p100

*7:同書p78

*8:國分功一郎,2011,『暇と退屈の倫理学』,p144~145,p342~343,朝日出版社

*9:同書p343

*10:同書p350

*11:速水健朗,2012,『都市と消費とディズニーの夢』,p62,p95,角川書店