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いつまでも子どものままで

音楽の希望と絶望(『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』書評)

柴那典の初の単著『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』を読んだ。
この本が言わんとすることは、このCMを見れば一発で伝わってしまう。

Google Chrome: Hatsune Miku (初音ミク) - YouTube

ロック音楽を語る上で用いられたクリシェと詳細な取材によって、「サード・サマー・オブ・ラブ」なるものが、初音ミクが生まれた日本で起こっていたという音楽史観を提示する本書。
その詳細な取材は、初音ミクを発売したクリプトン・フューチャー・メディア代表取締役伊藤博之や、初音ミクをフィーチャーして一躍有名人となったクリエイター・kzを中心に、初音ミクの歴史の要所をおさえている。それ故に「要所しかおさえていない」という批判があることは想像に難くないが、それはさしたることではないだろう。そもそも彼が提示するのは、上のCMのような「Everyone, Creater」の時代の到来である。本書を読めば、彼が取材をしていないクリエイターたちも、その美しい歴史に足あとを残していることがわかる。
それにしても、1967年「サマー・オブ・ラブ」、1987年「セカンド・サマー・オブ・ラブ」、2007年「サード・サマー・オブ・ラブ」。ほぼ20年毎の周期で訪れる「サマー・オブ・ラブ」というのは、少々こじつけが見られるもののそれを補って余りある美しさがある。TemplesやJagwar Maこそが「サード・サマー・オブ・ラブ」の担い手だ!という、割と「正当」な感じがある歴史観を吹っ飛ばす力がある。「だれが音楽を殺すのか」(津田大介)。その犯人探しをしていた音楽の暗黒時代を抜け、音楽に明るい希望が見えてきた…そんな感動を覚えずにはいられないという人も多いだろう。まあ、筆者の美しくかつあえてセンセーショナルに書いた文体に「ダマされている」と言えなくもないが…。

まあなんにせよ、本書は音楽の希望を語った本である。しかしそれと同時に、音楽の絶望をも語っている。どういうことだろうか。

柴は本書で、濱野智史アーキテクチャ論を援用しながら、ニコニコ動画アーキテクチャの作用によって、J-POPが「浮世絵化」しているという議論を展開する。わかりにくいのでもう少し具体的に話すと、ニコニコ動画における音楽は、動画上でコミュニケーションするためのネタであるから、情報量を多くしなければならない。それ故に早口の歌詞や高いBPM、そしてストーリーを盛り込んだ歌にガラパゴス化した。それはまさに日本の「浮世絵」のようだ、というわけである。本書の初稿?として書かれた本人のブログを読むことができるので、もう少し詳しく知りたいという方はこちらを参照。
浮世絵化するJ-POPとボーカロイド 〜でんぱ組.inc、じん(自然の敵P)、sasakure.UK、トーマから見る「音楽の手数」論 - 日々の音色とことば:

この議論は同時に、「ガラパゴス化していない音楽は売れない」ということをも示している。
たとえば、Wilcoの「Yankee Hotel Foxtrot」はアメリカで50万枚以上の売上を記録し、グラミー賞2部門を受賞した。Wilcoの音楽は、他ジャンルからの引用を多数取り入れ、実験的で、ある意味では情報量が多いが、基本的にメロディはシンプルだ。しかし、Wilcoと同様の志向を持つ音楽が日本で10万枚売れることは、あまり想像できない。

Wilco - Jesus Etc. (Live on Letterman) - YouTube

別に日本の音楽のガラパゴス化がいつであろうと、柴が提示した「浮世絵化」という概念は、とにかく今の売れるJ-POPは、海外のそれと違って相対的に情報量が多いよ、と言っているだけで、もちろん例外はある。Arctic Monkeysの1st、2ndやVampire Weekendはその最たる例だ。しかしそのような例外と比較してもなお、初音ミクニコニコ動画以降J-POPの情報量の詰め込み方は異常という感じがある。

そもそも、日本の音楽のガラパゴス化は、いまに始まったことではない。ロックやヒップホップが日本に入ってきたときも、それを日本語の歌詞でいかに鳴らすかという課題はミュージシャンやリスナーたちによって豊かに語られ、その語りや、そこから生まれた音楽が日本独自の文化として成長してきた。
それでもなお、英語の歌よりも日本語の歌のほうが相対的に情報量が多い。「情報量」という言葉が抽象的なので、もう少し踏み込むと、「メロディの動きの量」がどうしても日本語のほうが英語より大きくなりがちだ。J-POPのサビの王道としてカノンコードとかが取り上げられているのは、カノンコードそのものが結構長く、豊富なメロディを詰めることができるからだろう。
日本の歌を大衆に届けるためには、ある程度情報量を増やさざるを得ない。しかし、英語の歌は、情報量を多くすることもできるし、シンプルにまとめることもできる。

そういうことを考えていると、J-POPの「浮世絵化」とは、この「シンプルにできない私たちの日本語の歌」というコンプレックスに対する居直りと捉えることができる。「なんかオレたちの歌、英語の歌と違うけど、別によくね?」という感じ。
そしてそれはつまり、「英米的な情緒を日本語でいかにして歌うか」という課題によって醸成された文化の敗北をも意味する。つまり「洋楽みたいな感じが好きな私たちが好きになるような音楽は、日本にはない」ということだ。
洋楽コンプレックスを抱いた人々が憧れた「サマー・オブ・ラブ」「セカンド・サマー・オブ・ラブ」。その次の「サード・サマー・オブ・ラブ」はなんとここ日本で起きていた。しかしそこで生まれた音楽は、自分たちの嗜好と真逆のものであった。これが絶望でなくてなんだというのだろう。

現代日本がとりつかれた「だれが音楽を殺すのか」という問題。柴の『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』はこう答えた。「そんな犯人探しをする必要はない。なぜなら初音ミクが音楽を救ってくれるからだ」。しかし、洋楽コンプレックスにとりつかれた人々たちにとってはこうも読めてしまう。「だれが私たちの好きな音楽を殺すのか。その答えは初音ミクだ」と。

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?