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いつまでも子どものままで

音楽と芸能の問題とかのこと

 久々に友人に会ったとき、音楽について語らう場面になった。その友人は音楽がとても好きで、会うたびに音楽の話になる。僕の洋楽の趣味も彼によって培われた部分が大きい。そんな彼がいうところによれば、「音楽はどんな人の心をも突き動かす普遍性みたいなものがある」という、とても青臭い理想論だった。そして、そんな彼から音楽の楽しみを知った僕も、そんな青臭い理想論に、いつだって同意してきた。そういうほうが、美しいと思うからである。
 ところが最近の僕は、そんな普遍的な音楽などあるわけがないという議論を展開することが多い。それはもちろんアイドルのおかげであり、アイドルのせいである。私が2011年冬、ひとり自宅に引きこもっていたときにYouTubeで見つけたアイドルたちは、明らかに私のサブカルチャーに対する価値観を一変させてしまった。今日はそれについて書きたいと思う。



 2004年、僕がはじめて自分でレンタルショップで借りたCDは、EXILEの「Choo Choo TRAIN」であった。なんでだかは、よく覚えていない。そのあと当時全盛を誇ったFLASHBUMP OF CHICKENを知って感動し、そのあたりからTSUTAYAでCDを借りたりするのが習慣化してきた。そうしているうちに「音楽が好き≒詳しい自分」という自意識がいつの間にか芽生えてきたのも確かで、ちょうどその頃はいろいろあって部活をやめたところで多感な時期だったのでわかりやすい中二病に陥っていたと思う。Radioheadとかもこの頃聴きはじめて、同じ頃バンドもやっていたのでもちろんコピーした。ロキノン厨はバカにするが(僕がくるりを好きになるのがかなり遅く、椎名林檎周辺がいまだに疎いのはこのためだ)、もちろんロキノンはしっかり立ち読みしていたし、snoozerは大好きだった。
 とはいえ、いま思い出すと、音楽を聴いていて衝動を受けるみたいなことはあまりなかったように思う。Radioheadに至っては*1、当時まわりにいた友人の何人かが「これはすごいよ」とすすめてくれたから聴いたのだが、正直最初は何がすごいのかまったくわからなかった。とりあえず一番耳あたりがいいと感じた『The Bends』を何十回も聴いていてあるときふと、「あ、これがかっこいいってことか」とわかる瞬間があって、それは僕の場合は「Blackstar」のリフだった。ギターをやっていたからDsus4のコードリフが綺麗に聞こえただけなのだと思うが、その美しさを感じた瞬間というのは、とても素晴らしい体験だったと記憶している。

The Bends

The Bends

 とある「素晴らしい」とされる音楽を理解するために、よさが分からないまま何十回も聴いてみるという無意味な訓練を繰り返さなければいけないのだとしたら、音楽に普遍性などないのかもしれない。当時の僕はそのことはあまり深く考えていなかった。
 でも、改めてこういうことを考えてみると、文化を理解するためにはその無意味な訓練を繰り返さなければならないというのは、意外と大切なことなのかもしれない。そうすると、本当に良いとされる音楽は、それをいいと思える脳みそと耳を訓練しなければその良さを知ることさえできないのかもしれないという仮説が見いだされる。よくよく考えてみたら、お酒だってそうやって覚えてきたはずだ。ビールを飲んで「苦い」が「うまい」に変わったのはいつのことだったか。映画だってそうだ。映画というのは「2時間前後とにかく画面に集中し尽くす」という態度が身体的にこびりつくまで訓練しなければ楽しむことはできない。そういえば、僕が映画を見るようになったのも、本当にここ最近のことだ。高校時代は長ったらしくて耐え切れず、いつの間にかオナニーをして寝てしまっていたくらいだった。



 2010年、僕はアイドル音楽を改めてまともに聴くことになる。きっかけは、どこで聴いたか覚えていないが、AKB48の『ポニーテールとシュシュ』だった。イントロのピアノは、僕に衝撃を与えた。それはまさに文字通りの「衝撃」であった。つまり、僕が中高時代にやっていたような、Radioheadを何十回も聴き続けて良さがわかるというようなものではなく、一聴した瞬間その美しさが唐突に自分の中に押し寄せてきた。
 2011年には楽曲だけでなくテレビ番組などで個々のメンバーのキャラクターなどもチェックするようになり、2013年には、まわりからキモヲタと認知されるようになっていた。中高生の頃の僕に「24歳の僕はいまだに膣内射精体験がなく、しかもいまの君が毛嫌いしているアイドルが大好きになっていて同じCDを何枚も買っているよ」と伝えたら、さぞ悲しむことだろう。
 とはいえ、現在の僕は中高時代から好きだったようなタイプの音楽が嫌いなわけではない。むしろ大好きだし、その中のひとつにアイドルというジャンルが入り込んでしまったと言ったほうが正しい。そこだけを切り取れば、2014年現在の僕は中高時代から相変わらず一貫した態度をとり続けている。ただ一つ変わったところがあるとすれば、それは、「音楽について語る言葉を模索する態度を得た」ということだ。

【特典生写真無し】ここにいたこと(通常盤)

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 「いい音楽とはなんだろうか」という問題について、アイドルの「洗礼」によって僕はいままでの考えを改めざるをえなくなった。すくなくとも、いままで聴いてきた音楽だけが素晴らしいわけではないと思ったし、むしろいままで好きだと言い続けてきた音楽の大半をなぜいいと思ったのか、それは音楽だけではなく単に友達の評判を鵜呑みにするために無理やり訓練しただけではないかとか、考えなおすハメになった。バカげたことだが、僕にとってはとても重要なことだった。だからそれをどうにか分析し、他者にそれを伝えることで自己の立場の正当性を表明するしかないということで、言葉を探した。逆にいえば、それまでの僕は勉強をしていなかった。アイドルのせいで勉強させられている。そういっても過言ではない。
 去年の大晦日、飲み屋で紅白を見ながら延々としゃべり続ける僕に、長年の付き合いの友人が「お前って昔から紅白好きだよな。お前の家はいつも大晦日は紅白を見ているという印象がある」と言われて、なるほどと思った。つまるところ僕はミーハーなのである。なんだかんだ人々が聴いていないような洋楽(しかしそれもいまでは、誰もが聴いているので、別にマイナー志向でもなんでもないのだが)を聴いて悦に浸っていた青春時代。これは結局偽りでしかなく、僕の通底にある音楽の好みは、テレビによって育まれたとても芸能的なものだったということだ。
 僕は日本の芸能的なメロディと洋楽的なメロディの差異、あるいは邦楽が洋楽を超越するにはどうすればいいかという問題についてよく考えている。それはきっと、幼い頃に培われた芸能的なものへのミーハーな愛と、それについての強いコンプレックスによるものだろう。たとえば、Radioheadへのリスペクトを公言するストレイテナーからRadioheadの影響が一切垣間見られず、J-POPのなかの一ジャンルとしてのJ-ROCKにしか聴こえないのはなぜかといった問題についてよく考える*2。これはもしかしたらストレイテナーのメンバーが、結局のところストレイテナーの中にRadioheadらしさを取り入れる必要がないと意識的にか無意識的にか判断したからなのかもしれないが、そんなことの正解は知る由もない。あるいはそれは、Radioheadの音楽性は、英語でなければ醸し出すことができないという言語の問題かもしれない。言語の問題で言えば、明らかにシューゲイザーの模倣として登場したスピッツの音楽が歌謡曲的なメロディに落ち着くのは、確かに日本語の歌詞にメロディをつけると歌謡曲的で起伏が冗長になりがちなメロディになってしまうからなのかもしれない。じゃあブルーハーツは…ミスチルは…サザンは…切り口は如何様にでもある。
 青春時代に培われた僕の音楽的感性と、幼き頃に培われアイドルによって再び掘り起こされた僕の芸能的感性は、つねに拮抗し続けている。そういえば、去年の夏頃に書いた「「恋するフォーチュン・クッキー」が音楽の楽しみ方を教えてくれる - b」もそんな気持ちで書いたものだった。Daft Punkを小馬鹿にし(実際には大好きなのだが)、AKBを持ちあげるというこの記事は、一部でやはりからかわれたが、僕にとっては延々と考えていることについての実践であった。それにしてもこうやって書いていると「どうしてこうなった」感は否めないのだが。

*1:ここではRadioheadのみに言及するが、よくよく考えてみたら、もっとポップなOasisだって最初はよさがわからなかった気がする…。

*2:この投稿の下書きを書き終えた次の日、なぜだかストレイテナーの楽曲をYouTubeで聴いていて、『シンクロ』という曲に出会ったが、これはとてもよく、なんとなくRadioheadの『No Surprises』に通じるものがある気がした。ただそれを入れてもなお、ストレイテナーをはじめとしたロキノン系バンドに共通して見られる、「歌謡曲感」がなんなのか、やっぱりよくわからない。ひとつ言えるのは、この「歌謡曲感」は自分の音楽の好き嫌いとはあまり関係ないということだ。「Melodic Storm」とか、とても大好きだし。