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いつまでも子どものままで

濱野智史になってはいけない…?(『前田敦子はキリストを超えた』書評)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

 本当は、「ヤバイ。糞本もいいとこだった。日本の論壇終わったわ」とか書くつもりで買ったのだが、いろいろと考えるところが多かった。私の大学の情報社会論の講義で扱うようなテーマ(ロングテール、ポスト産業化社会としての情報社会)をAKB48と絡めて書いている箇所もありさすがに『アーキテクチャの生態系』の著者だけのことはあるなという感じだった。

アカデミズムがポップになっている

 大学生が書く卒論のいい見本でもあるのではないかな、と思う。先日、アイドル評論に熱が入る私に、友人が「アカデミックを名乗る者は、学術的なスキームを、その学問ないし社会に資する研究のために用いるべき。そのスキームを個人的な好みの対象に適用して、『学問的な分析に堪える』という権威性を付与し、ひいてはそれを好む自分を承認させようとする試みは、非アカデミックの自慰の文脈でしか許されない。」「そもそも、対象が学術的なスキームによる分析に堪えたとしても、それは対象の普遍的な価値を証明しているのではなくて、そのスキームの汎用性を証明しているに過ぎない。」という厳しいエアリプをくれたばかりだ。しかし、大学の「学校化」という現象*1が起こってしまっている以上、大学が単なるアカデミズムの場としてのみ見られてはいけない。多くの大学生にとって大学とは「アカデミズムの社会見学」としての四年間でもありうる。だから、自分の好きなものを卒論の研究対象とし、大学で学んだ知識をフル活用してそれをアカデミックに語ろうとする試みを、「自慰行為」と否定することは、僕はできない。
 そもそも、アカデミズム、あるいは論壇がポップなものになってきている。NAVERまとめで「思想ブーム到来!要チェックのイケメン若手批評家10人」などというわけのわからないまとめがバズる時代だ(しかもそこまでイケメンではない)。また、先日はじめて「文学フリマ」に行ってきたのだが、一見アカデミズムからすれば自慰行為として切り捨てられるであろう同人誌を買うたくさんの人々の市場ができあがっているという事実には驚きを隠せなかった。なによりNHKの『ニッポンのジレンマ』は、「社会を語るという行為がカネを生み出す」からこそ登場した番組だ。『絶望の国の幸福な若者たち』で一躍時の人となった古市憲寿の芸能人的な消費のされ方も目に余るものがある。
 いいことなのか悪いことなのかはさておき、アカデミズムはポップで誰もが足を踏み入れやすい空間になりつつある、という事実には注目しておかなければならない。

アカデミズムがポップであることの是非

 濱野智史という人間は、アカデミズムあるいは論壇をエンタメ化したと言えるであろう「ゼロ年代批評」の潮流のど真ん中にいた気鋭の論客の一人であった。というか、いまもそうである(と思っている)。彼もまたゼロ年代批評の中心にいた東浩紀の定義によれば、ゼロ年代批評は「(1)2000年代半ばに勃興してきた、(2)ネットワークと郊外型社会、消費文化の基本的な肯定を前提とした、(3)1970-80年代生まれの論者たちが担い手となった一群の思想的・批評的言説」*2である。彼はこのあとのツイートで「肯定」という言葉をポイントとして説明しており、それは単なる承認とは違った形であると言っている。つまり、「ゼロ年代批評は、本来、『オレら大好きなアニメのこと難しく語って研究っぽく見せつけておけばいいんだよねブヒヒ』じゃないよ」というわけだ。とはいえ、結局のところゼロ年代批評はおたく・サブカルが自分の趣味をアツく語るだけのお遊びに見えなくもない。アカデミズムが扱うコンテンツがポップカルチャーで社会性が低いこと、あるいはアカデミズム自体がポップであることは、果たしていいことなのだろうか。それとも悪いことなのだろうか。
 まず、彼らの批評内容、そしてそれが帯びる社会性に関する是非はさておき、彼らが新しい働き方/生き方を提示しているところは、一定の評価がされるべきである。宇野常寛の「PLANETS」、荻上チキの「シノドス」、東浩紀の「genron」など、旧来の学閥・出版業界とは適度な距離を置いた新しい論壇の在り方を彼らはそれぞれに模索している。端的に言えば、アカデミズムの潮流に乗ることなく食っていく手法を私たちに提示しているのだ。また、そのアカデミズムと新しい生き方の境界は曖昧になってきており、研究者の裾野が広がっている。この点について私たちは肯定的に評価しなければならないだろう。
 その一方でその批評内容は、社会性、あるいはアカデミックな分野での貢献度の高さがある一定の部分で重視されるべきだという意識を常に持つことを忘れてはいけないと思う。それは、冒頭に引用した友人のツイートに象徴される。この点について、社会・あるいはアカデミックへの貢献度が低いと思われる批評は確かに少なからず存在する。私たちは、ポップ化した批評や学問を消費する際、それは社会的ではない可能性があるよ、ということを常に意識しなければならない。
 ただし、この社会性の重視は、ノブレス・オブリージュ的な発想を根拠としたものにすぎず、「知性あるもの社会に貢献すべき」という命題は果たして正しいのか、という点には議論の余地があるかもしれない。このような義務感に対する反抗として無意識的にスノッブ化した知性が、結果として現在のような知のポップ化を促したとも言えるだろう。

知を志す者、濱野智史になってはいけない

 さて、アツく語ってしまって『前キリ』の書評でなくなってしまった。しかし、『前キリ』を読むとき、上記のような問題は必ず語るべきだと思うのだ。
 東浩紀が皮肉っぽく濱野智史を批判するとき、あるいはアルファブロガーたちが『前キリ』をこきおろすとき、その背景に「知性あるもの社会に貢献すべき」というノブレス・オブリージュ的義務感が見え隠れする。その義務感を持つ者からすれば、どう考えても『前キリ』は糞本である。読まない方がいい。積読にあるなら読まずに捨てた方がいい。彼が「AKBが世界を救う」といったことを豪語したあとの後半の現実的な世界救済の可能性はとても低く、夢物語でしかない。しかもそれは、ただでさえSF的と批判された『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』よりも遥かに低いほどである。そもそも、AKB的なものが広まれば東アジア情勢は安定するみたいな話は、グラビアアイドルが反日運動やめてって言ったら止まったみたいな週刊誌の小ネタレベルのものである。また、AKBファンである私からしても、AKBが今後更なる拡大をし、半永久的にセンター(≒ポスト前田敦子濱野智史に言わせればぱるる)を生成していくだろうとは思えない。正直、結構AKB落ち目だと思ってるし…(これは普通に鬱)。
 ただし、「知を扱うことの楽しさ」を知っている人、知りたい人は、ぜひ読むべきおすすめの一冊だ。濱野智史のAKB論の大半は、決して稚拙なものではなく、注目に値する(これはアカデミックな観点にたっても言える)。吉本隆明のマチウ書試論を引用しながらAKB48と原始キリスト教を比較し、さらに既存の宗教にない「いま・ここ」への志向性や偶発性といった新しさ、そしてそれを生み出すシステムなどに注目する流れはどこかで引用したくなるくらいだし、彼や宇野常寛らが口をそろえて「AKBはサリンを撒かないオウム」と言うのも頷ける。また、彼の劇場での体験を理論的に記述しようとした第三章「人はなぜ人を「推す」のか」はちょっとしたルポルタージュとなっており、読み物として十分面白く、在宅AKBファンが劇場・握手会などの現場に行きたくなる楽しい文章に仕上がっている。何より擬似恋愛の歴史を辿る上でAKBの存在が擬似恋愛の在り方をアップデートしているという事実を理解することができる。

 ところでこの本の書評としては、本が好き!Bookニュースの書評がかなりバズっているが、本当にうまい書評で、とことんコケにしておきながらその面白さを伝えている。この書評によると、『前キリ』は「神秘体験を理論的に記述しようとした本」に近いらしい。なるほど、その神秘体験の世界に入り込んでいない読者の側からすれば、それを本気で語っているのは実に滑稽だ。
 そもそも、アイドルを見るときにその視線には多かれ少なかれアイロニーが込められているというアイドル批評の前提を忘れてはならない。濱野智史は「AKBファンは大澤真幸の言う『アイロニカルな没入』という感覚を持っていない。世の中『マジ』しかないのだ(キリッ」といった内容のことを書いている*3のだが、これはテレビ東京系列『マジすか学園』シリーズでよく出てくる「マジ」という言葉を取り違えているだけではないだろうか。そもそもヤンキーの「マジ」をパロディとして扱った『マジすか学園』の「マジ」をマジとマジで(マジがいっぱい)捉えているのなら、それはちょっといろんな意味でやばいのではないかとも思う。
 パロディとしての「マジ」を取り違えていること、「マジ」になりすぎるあまり後半で稚拙な夢物語を編み出すことで社会性を得ようとしてしまっていること、このあたりは『前キリ』の最大の欠点であると思う。この本を私と同じ大学生におすすめしたいのだが、その意味で、「濱野智史になってはいけない」*4のである。

 とはいえ、このへんの立ち位置を意識することは非常に難しく、とにかく暑苦しく語ることが好きになってしまった私も結構「マジ」になってしまうことは多いので、あまり濱野さんのことは非難できないのだが…だいたい28日PLANETSの忘年会で濱野さんに会うことになるだろうし…。

*1:このあたりの問題については、僕のゼミの教授でもある横浜市立大学高橋寛人の論を聞くとよくわかる。読んでもらいたいが、文献はすぐには出てこないかな…マイナーなものが多いし…。

*2:https://twitter.com/hazuma/status/89510873932115969

*3:濱野智史,2012,『前田敦子はキリストを超えた』p174~175,筑摩書房

*4:記事のタイトルにもしたこの言葉は、横浜市立大学や早稲田大学で教鞭をとる助川幸逸郎先生の著書『光源氏になってはいけない』、あるいは先生がプレジデントで連載した『村上春樹になってはいけない』のパロディである。