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いつまでも子どものままで

テン年代アイドルファンの想像力

はじめに

 アイドルたちの時代が、再び訪れた。そういっても過言ではない。テレビや雑誌を彩るのは、「国民的アイドル」の冠を欲しいがままにするAKB48グループだけではない。かつて一時代を築きあげてから、ずっとメンバーが入れ替わりながら続いてきたモーニング娘。、そしてその娘。を中心としたハロー!プロジェクト。他にも、ももいろクローバーZ東京女子流・SUPER☆GiRLS・アイドリング!!!などなど…。活躍するグループアイドルたちの名前を挙げればキリがない。
 アイドルをひどく下等なものとみなし、文化的なものとして認めない人びとがいる。しかし、「人間の高度な精神活動の産物」を文化と定義するのであれば、芸能の中から生まれたアイドルも立派な文化であるはずだ。
 私はアイドルを愛してやまない。そして、アイドルを文化として語りたい。そのために私は本レポートにおいて、以下のような考察を行う。
 まず、「アイドルとは何か」という定義の問題を考察し、次に「なぜアイドルは下等なものとして見られるか」という問題について、アイドルファンのファンとしての在り方を分析しながら考察する。最後には現代のアイドルの様相を確認し、現在のアイドルとアイドルファンの関係をまとめたい。

アイドルが紡ぐ成長物語

 アイドルの定義はとても難しい。アイドルでないはずの人間が消費者にとって見ればアイドルであることもよくある(ex.女子アナ)。
 太田省一は著書『アイドル進化論』で、アイドルに重要な要素の一つとして「成長」という言葉を挙げている。

アイドルが自らの未熟さを自覚し、努力を重ねた末にそれを克服して成果を収めたとき、純粋さは失われてしまう。つまり、アイドルでなくなるのである。アイドルの魅力のエッセンスである純粋さを際立たせてくれるのは、あくまでであって、結果ではない。目指したゴールに到達し、それまでの過程が終わってしまえば、アイドルはアイドルでなくなるのである。だから、アイドルであり続けるためには、ゴールは永遠に訪れず、つねにその過程にあることが望ましい。アイドルは、”成長途上”の存在であり続けなければならないのである。*1

 思えばモーニング娘。AKB48も、「まだまだ素人だけど、これからの成長を見てください」というコンセプトのアイドルグループだ。
 芸能人たる「人を魅せるセールスポイント」もない女の子たちが、成長していく姿をエンターテインメントとして見せる。これがアイドルだというわけだ。この主張は確かに頷ける。

アイドルはあやつり人形

 また、太田は、金子修介の言葉を以下のように引用している。

操り人形のように、歌の中の決められた部分で身体を動かして見せる。何度歌っても同じアクション、歌に心が入ったらとか、興が載ったらというアドリブ的な要素はいっさいない。ただ段取りを見せるだけ……ということが、実に新鮮で、実にエロティックだったのである。*2

 これについて太田は、ピンク・レディーはその「UFO」などの楽曲に代表されるファンタジーの世界観を全うするが故にいつのまにかアイドルの範疇から外れたとしている。しかしその一方でピンク・レディーにあやつり人形的なエロスがあることを認めている。*3
 世間一般的な認識で言えば、ピンク・レディーもテレビを賑わせたアイドルである。成長がなくてもあやつり人形のようなエロスを持っていれば、アイドルといえるのではないだろうか。
 ただし、「成長」と「あやつり人形」という言葉は表裏一体である。何もできない女の子が、人(=プロデューサーやコンポーザー)の手を借りて「成長」していく。その流れの中で、成長を目指していたつもりがいつの間にか彼らの「あやつり人形」になっている。ここでそのあやつり人形的エロスを売り物にするのが、アイドルなのである。それは「何もできない」という魅力をそのままに商売に利用しているだけだ、という見方もできるが、そこにエロスを見出す消費者たちの行為は、確かに文化的ともいえるのではないだろうか。

アイドルのファンであるということ

 しかしアイドルファンに対する「商業主義に毒された者たち」という烙印は拭えない。なぜアイドルファンたちはそれでもなお、アイドルファンであろうとすることができるのだろうか。その答えは、稲増龍夫の著書『アイドル工学』にある。

 『CHECKERS in TANTAN たぬき』という映画がある。

 これはアイドル的人気を誇ったバンド、チェッカーズが実はたぬきが化けた姿だった、というお話だ。最終的に、チェッカーズがたぬきであることがファンたちにばれてしまうのだが、ファンたちは「たぬきだっていいじゃない!」と認めるのである。
 ここにアイドルの楽しみ方の本質があると稲増は言う。アイドルを楽しむということは、ウソを承知でウソを楽しむという虚構ゲームなのである*4浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」*5という行為が、アイドルファンたちの間では素朴に行われている。おそらくこれこそが、「商業主義に毒された」という烙印を付けられたアイドルの唯一の楽しみ方なのである。

アイドルを語るという行為

 先の『アイドル工学』によれば、アイドル論の下地は「近田春夫オールナイトニッポン」にあったという。近田春夫は「アイドルの商業主義の何が悪なのか?」と問い直した*6。このラジオが、すべての始まりだった。このあと、梶本学らによって『よい子の歌謡曲』というミニコミ誌がつくられた。梶本学はこう語る。

梶本 一つのファッションになってると思うんです。歌謡曲を語るという行為そのものがファッションとして成立した。その中にアイドルというのがあって、それもファッションとして成立した。いわゆる新人類の諸君とかが、やってましたけど。自分たちが見て来たもの、共通の体験ですよね。それを活字、文章として定着させた。その現象はウルトラマンにしても怪獣にしても同じだと思うんです。僕たちより上の世代というとアイドルってのは違うと思うんですよ。当時はロックなりフォークなりというのがあって、アイドルは馬鹿にする存在だったわけで、そのへんの欠落感みたいなものがあったんじゃないですか。*7

 アイドルファンたちは、「虚構ゲームの中にいるからいいんだ」と思いつつも、アイドルを語ることを、ロックやフォークのファンたちに対抗するファッションにせずにはいられなかったのである。

テン年代アイドルファンの想像力

 アイドル論壇の下地をつくった近田春夫が、そもそもロックミュージシャンであるという事実は興味深い。
 昨今、アイドルと「サブカル」がいままで以上に接近している。ロックバンド・相対性理論は、ボーカルやくしまるえつこが作詞で参加した「Z女戦争」をライブでセルフカバーし、AKB48の大ヒット曲「ヘビーローテーション」のPVは監督を蜷川実花がつとめた。また、アイドルファンを公言する文化人も増えつつある。
 もちろん、アイドルをはじめとした「おたくカルチャー」もサブカルチャーの一つではあるが、ここでいう「サブカル」とは、精神科医の斎藤環が「おたく」「サブカル」「ヤンキー」という三つの類型を用いるときの「サブカル」であり、おたくカルチャーとは一線を画している。*8
 おそらく、アイドルとサブカルを近づける最も大きな要因が映画と音楽であり、さらにいえばそのキーパーソンは中田ヤスタカなのだ。

 中田ヤスタカといえば、テクノポップユニットPerfumeのプロデューサーだが、Perfumeは中田がプロデュースする以前、凡百ある地下アイドルの一つにとどまっていた事実を見逃してはならない。そう、Perfumeはアイドルなのである。
 Perfume中田ヤスタカの楽器の一つとなり、言われた通りのボーカル(特に彼はウィスパーボイスを彼女たちに要求し、それにヴォコーダーを用いて歌声を加工する)をこなすことで成功した。しかし彼女たち、特にメンバーの西脇綾香はもっと歌唱力を前面に押し出して成功したかった、という分析がブログで公開され、大きな話題を呼んだことがあった。少なくともファンたちに見せる表象において、彼女たちは中田ヤスタカのあやつり人形であり、その意味で独特のエロスを纏ったアイドルだったのだ。
 彼女たちの成功方法は独特であった。つまり、中田ヤスタカの楽曲プロデュースのもと、それに見合った振り付けや衣装を用意し、硬質でどこか冷めたロボットのような印象を与え、これが「サブカル」たちに大ヒットしたのだ。
 おそらく現在の「アイドル戦国時代」の様相の下地をつくったのはPerfumeである。Perfumeは私たちの「何もできないかわいいだけの女の子に自分のつくった曲を歌わせられたら」「何もできないかわいいだけの女の子を自分が(映画・写真で)撮影することができたら」という想像力をかき立てた。しかもその想像力をかき立てられたのは、アイドルを愛する人々の一般的イメージである「おたく」だけではなかった。映画を愛し、オリコンチャートとはあまり縁のないマイナーなバンド、あるいはロキノン系の音楽を好んで聴く、そして何より村上春樹的「やれやれ」に大きな共感を持つ「サブカル」たちも、かき立てられてしまっていたのだ。
 元来アイドルは「おたく」だけでなく、「ヤンキー」にも親和性を持っていた。これは、アイドルを下賤なファンから守るために立ち上がった親衛隊たちの姿を見ればわかりやすい。彼らは特攻服を着てアイドルのイベントにのぞむのだ。このように「おたく」「ヤンキー」に親和性を持ったアイドルが「サブカル」をもファンに獲得すれば、それは、斎藤環が人間を三つの類型に分けたときのその普遍集合、すなわち大衆を味方につけることになる。アイドル戦国時代は、このように大衆がアイドルに魅せられる空間をつくってしまったPerfumeによって形成されたのである。

 テン年代を生きる私たちは、以上のような想像力のもと、アイドルを消費しているのだと思う。そしてその消費の在り方は、Perfumeがそうであったかもしれないように、多くのアイドルたちを苦悩させる。なぜならアイドルファンたちは「何もできないおまえら」を愛しているからだ。おそらく彼女たちの心の中には、途方もない無力感だけが広がっているのだろう。アイドルたちは、今後ファンの異常な視線を、どのようにして生きていくのだろうか。


参考文献
アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)
失われた歌謡曲―MY LOST DOMESTIC POPULAR SONG (エスノブックス)
アイドル工学
構造と力―記号論を超えて
文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

*1:太田省一,2011,『アイドル進化論』p22~23,筑摩書房

*2:金子修介,1999,『失われた歌謡曲』p164,小学館

*3:太田省一,2011,『アイドル進化論』p68~69,77~78,筑摩書房

*4:稲増龍夫,1989,『アイドル工学』p19,筑摩書房

*5:浅田彰,1983,『構造と力―記号論を超えて』p6,勁草書房

*6:稲増龍夫,1989,『アイドル工学』p16~18,筑摩書房

*7:稲増龍夫,1989,『アイドル工学』p27~28,筑摩書房

*8:斎藤環,2008,『文学の断層』,朝日新聞出版