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いつまでも子どものままで

久しぶりにゼミの先生に会った

日記

仕事の忙しさを言い訳に会うべき人と会わない、あるいは一度会っても二度目の機会をつくらない、といったことがよくあって、そういう状態でいるとさまざまな人に対する負い目が強くなっていく。その負い目と変に真剣に向き合いすぎると、あるいは目を逸らし続けると、気づけば「社会に対する負い目」みたいなものに肥大化し、自家中毒的に自分の体力と精神をすり減らし、あらゆる行動を自分で制限するようになる。そういうときに限ってあらゆることうまく行かなくなったりしたりもする。なんとなくSNSの更新を避け、こうやってブログに自意識を投下してるのもそのあたりが理由だ。こういうのは結局のところ、いろいろなものを言い訳にして人と会うことを避けている自分が悪いわけだし、こういう精神状態を改善するには、人と会ってその話をすればよいというのが一番適切なのだが、前の仕事をやめてからどうにも踏ん切りがつかなかった。たまに踏ん切りをつけて会おうとしてみても肝心の相手が僕と会いたくなさそうだったり、いつもいた場所に不在だったりスケジュールが会わなかったりして、なかなか会えない方も多かった。気がつけばいまの仕事につき(といってもただのフリーターである)、またなんとなく忙しく変則的なスケジュールになってしまって、会えない人がたくさんいるままである。
ただそんななかでも、なんとなく上記のような状況に対してなんとかしなくちゃという、前向きと言っていいのかわからないけど後ろ向きか前向きで言えばまあどちらかと言えば前向き、みたいな思いでいたので、休みの日は意識的に人に会うようにしている。こないだの休みは、キャッシュカードを再発行したついでに、本を借りに久々に大学の図書館に行った。その前に大学の図書館に行ったときは試験期間で卒業生や外部の人間は利用できなくて完全な無駄足だったが、今回は大丈夫だった。その足で、お世話になった大学の先生を訪ねた。何回か研究室には行っているのだが、不在ということが多かったし、まあ今回もいるわけないだろうくらいの気持ちだったが、その日は大学生の成績をつける手続きをする日とかいうことで、夏休みなのに、いた。
その先生のゼミには、正式に所属していたわけではなかった。友人が出てみるというのについていって、そのまま面白かったので友人が出なくなったあとも勝手に出て、気がついたら仕事が忙しくなったので出なくなり、そのままフェードアウト…という感じだった。先生とは二年近く話していなかったが、先生は明るく出迎えてくれた。ちょうどお昼時だったので、そのまま大学の外でランチをした。
いろいろな話をした。先生の中で僕は多読家として見られていて、と言っても僕はほとんど本を読むのは遅いし苦手だしなのだが、僕は在学中の時点から浪人休学留年などさまざまな理由で他の大学生に比べ歳も上だったし、相対的に他の大学生に比べある程度本を読むようにしていたし、そこそこ読めた。先生は僕だけにでなく、ほかのゼミ生にも、「読書の体力」みたいな話をしてくれた。読書というのはマラソンのようなもので、継続していないと、それをする体力さえ落ちてしまい、肝心なときに何かを読もうと思っても読めなくなっているから、継続的に読んでおこうというものだった。ほかの先生からもいろいろな「勉強かくあるべし」という論は学んできたが、僕はこの話が一番好きで、なんとなく自分のスタイルに合致していたというのもあって在学中はかなり意識して勉学に取り組んでいた気がする。
そういう先生だったので、一番最初にしたのは「最近もまだ続けて本を読んでいるのか?」という話だった。僕は仕事がなかった期間はヒマがあったし卒論も書いていたのでそこそこ読んでいたのだが、最近は仕事もあって読書量が落ちていた。正直にそう告げると、とても残念そうにしていた。そうやって話す僕もそこそこ残念そうな顔をしてたと思う。
そのあと最近自分が何をしているかとか、何にハマっているか、何を見ているか、何を考えているかといった話を、とりとめもなく一時間半くらいした。先生はあまり口数も多くなく、僕の話をゆっくりと聞き、なんて返してあげればいいかと言葉を探しているようで、実際僕は先生の返答を聞きなんとなく前向きになったり、気が楽になったりした。
その先生のゼミは、定期的にOBOGを含めた飲み会があって、毎回メーリングリストで招待されるのだが、一番先に書いたような理由で行かずにいたことが何度もあったのだが、その話をしたら「そんなんどうでもいいし、今のうちに来ておいたほうが良い。だんだんお前のことを知らないゼミ生ばかりになったら、なおさら来づらくなるだろう」と答えてくれた。こんなキツい口調じゃなかったけど。変にひとりで考えこむのはよくないというのは、高校生くらいの頃からいつも思うのだけど、どうしても人を避ける癖がなおらないから、なんとかしないとなあ。
ご馳走していただいたひよこ豆のカレーはとても美味しかった。なぜひよこ豆のカレーにしたかというと、大好きな原田知世さんが最近ラジオでひよこ豆にハマっているという話をしていたからなのだが、また食べに行こう。

20160809

日記

車窓から見える住宅街の風景には、すぐに田畑が忍びこむようになり、一番奥に見えるものは海になったり、山になったり、あるいはビルに遮られて見えなくなったりする。たまに灰色や、赤と白の横のストライプが入った煙突がそびえる。
日中は家で寝ている僕には、青い空のもとに広がる、どこまでも、どこも違うのに似たようなものにしか見えないその町並みが、なぜだか愛おしい。なぜだか僕を奮い立たせる。僕は顔を左に向けながら、川があれば、ただの川でしかないとわかっているのに、「あっ、川だ!」と思い、知ってる企業の工場に大きな看板がついていれば、心のなかだけでそれに大騒ぎを起こしている。大鷺が飛んでいるのが見えれば、家の近くでは見れて小鷺程度だなあなどとも考え、そしてこのような些末な事象にさえ、やはり僕は興奮した。たまにバイト先の店の系列店が見えた。そのとき僕は仕事のことを思い出したり、忘れたりした。今日は休みだった。
太陽が眩しい。たくさんの車が並ぶ駐車場で、各々の車がその色を主張している。たまに見える赤はあまりに鮮やかで、白や黒やグレーと、あとは緑と空の青だけで構成されたいかにも日本的な風景に彩りを与えている。赤でなくてもいい。日頃見慣れない鮮やかな色を見るだけで、心は奮い立つ。二時間は、右側の富士山に興奮する暇なく、あっという間に過ぎた。

BiSH「FAKE METAL JACKET」

日記

終電の時間を忘れていたことに気づいた。すぐに一緒にいた方が新橋から自宅の方へ向かう深夜高速バスを教えてくれ、タクシーに乗って新橋へ向かった。一本乗り過ごしていたことを知りもうこの時点で半ベソになっていたが、少し終点が違えど、最後の最後の一本が残っていることを知り、ホッとしてバスを待つ。すこししたら確かにバスが来てくれて、僕は3000円ほど払ってバスに乗り込む。その場で同席した方に勢いで感謝の礼のメールを送り、必死にそれをスマートフォンで打っていたらバス酔いし、ほとんど死んだような顔でバスが自宅の方角に近づいていってくれるのをただ待った。だんだん酔いも落ち着いてきて、音楽を聴く余裕も出てきた。少し周りを見渡すと、バスは湾岸を走っていて、左手には工業地帯の夜景が見えた。いろんな感情を覚えた。いろんなことを思い出したけど、昔に戻りたいわけでもなかった。
久々に複数日にわたる休日をもらったが、なにがそんなに駆り立てていたのかもよくわからないけど、4日間ほとんど休みなく動きまわっていた。いまはむしろ休日に入る前よりも疲れている。ただ、精神はヒリヒリしていて、ただ暗いだけよりは明らかに状態がいいみたいだ。

生まれながらの主人公、いつだって前を向くスーパーヒーロー。生駒里奈

いまから「26にもなって何言ってんだ」という文章を書こうと思う。詳細に書きたいことが山ほどあるはずなのだが、興奮しているかつ眠いので、とりあえず書き殴っておく。もしかしたら後日編集しなおすかもしれない。

こないだ深川麻衣の卒業特集グラビアに釣られてBRODYを買ったのだが、生駒里奈の紹介文がすごかった。

「生まれながらの主人公。いつだって前を向くスーパーヒーロー」

というものだ。正直立ち読みで済ませようと思ったのだが、この生駒里奈の紹介として書かれた一行だけで、なんだかわけのわからない高揚感が心に生まれ、その場で購入してしまった。
この文章をBRODY編集部のどういう人がどういうつもりで書いたのか、知る由もないが、ありえんよいと思う。

生駒里奈は、「太陽ノック」で久々にセンターに返り咲いて以降はまたセンターから降りた。選抜メンバーのなかでは二列目、三列目の目立たないポジションが定着しつつある。単純にポジションだけで言えば「主人公」には程遠い。
生駒里奈は、決してかっこ良くはない。個人的にはかわいいと思ったこともあまりない。どちらかというと、ドン臭い印象を受ける。滑舌もあまりよくなく、ダンスの身のこなしもハッとさせられることはあまりない。彼女が乃木坂の顔としてセンターに立たされ続けた初期ごろにはウンコを漏らしただとか噂されていてとてもかわいそうだった。そして実際に彼女はセンターを下ろされた。一度センターに戻ってはいるものの、やはり「下ろされた」というのは事実であり、この表現が正しいと思う。センターの重圧から来る呪縛がありながら、あるいはそれがあるが故に、絶望的なまでに非難に晒されながら輝き続けた前田敦子とは違う。明らかに「スーパーヒーロー」とは言いがたい経歴だ。

なのに、生駒里奈を紹介するには「生まれながらの主人公」「いつだって前を向くスーパーヒーロー」というのが的確だ。

2016年7月18日、FNS歌謡祭において「48&46グループの最強選抜16人」での「サイレントマジョリティー」が披露された。この最強選抜においてセンターに立ったのが、生駒里奈であった。この曲はそもそもここで説明するまでもないのだが、そのオリジナルの欅坂46版においては、センター・平手友梨奈が存在感が話題を呼び、テレビを賑わせた。この曲は平手がセンターでなければ映えない。そのような前提さえあったように思う。

欅坂46 『サイレントマジョリティー』

しかし、生駒はセンターに立った。そして、奇しくも他人のふんどしならぬ「妹のふんどし」を借りた形で、最高のパフォーマンスをやり切った。
AKB48選抜総選挙で前人未到の二連覇を成し遂げた指原莉乃を、「正統派」としてグループを背負って立つ渡辺麻友を、関西NMB48のキャプテンにしてセンターでありNMBだけでなくAKBさえも牽引する存在である山本彩を、高橋みなみからのバトンを受け継ぎ48グループの総監督になった横山由依を、もはや盤石の地位を確立した小嶋陽菜を、同じ乃木坂46においては明らかに人気の西野七瀬を、雑誌の専属モデルもこなし女性からも圧倒的な支持を得ている白石麻衣を後ろに従え、オリジナルのセンターの平手友梨奈からポジションを奪い取っても、すべて許されるどころか、その場の注目をかっさらっていってしまえるのが、生駒里奈である。
とりあえずフロントメンバーと有名な名前をいくつか挙げてみたが、生駒が後ろに従えたアイドルたちは、ほかのメンバーも信じられないほど豪華である。このままの勢いで全員紹介してしまおう。「大声ダイヤモンド」で鮮烈なデビューを飾り、SKE48において絶対的なセンターでありエースである松井珠理奈渡辺美優紀が卒業した今、NMB48において「次にセンターになりうる」筆頭候補白間美瑠。名曲「何度目の青空か」でセンターに立ち、乃木坂46においてもその強烈な個性を発揮し続ける生田絵梨花。初立候補時から2016年現在まで一度も順位を落とすことなく成長し続け、いま唯一HKT48で指原に対抗しうる宮脇咲良AKB48の前シングル「翼はいらない」でセンターとなり、選抜総選挙においても若手ながら選抜入りを果たした向井地美音。センターこそ「Green Flash」でのダブルセンターの一回の経験のみだがアイドルとしてのスキルに磨きをかけ、無冠ながらスキャンダルを経てもなお総選挙上位に君臨し続ける柏木由紀。「サイレントマジョリティー」のオリジナルメンバーからは、菅井友香と守屋茜である。どちらもセンターの平手の陰に隠れがちだが、これから飛躍していくメンバーだ。48グループ、46グループのこのタイミングで登場できるベストメンバーと言っても過言ではない。ドリームチームが過ぎる。
しかも、即席のチームでありながらかなりのハイレベルなパフォーマンスである。サイレントマジョリティーの楽曲そのものの力強さと相まってか、あるいはその力強さを食ってやろうとしているのか、鬼気迫る、それでいて魅力的なカットの連続である。単独で顔を抜かれているシーンをキャプでとったら、たぶん全部ベストショットになる。それくらい、最高のメンバーが最高のパフォーマンスをした。それが昨日のFNS歌謡祭だった。
で、長くなったけど、最後にもう一度言うが、これだけの錚々たるメンバーを従えてもなお、すべて許されるどころか、その場の注目をかっさらっていってしまえるのが、生駒里奈である。あの「サイレントマジョリティー」を見て、生駒里奈が主人公でなかったら、スーパーヒーローでなかったら、一体、なんだっていうんだ。

森達也「FAKE」


映画『FAKE』予告編

7月3日、「FAKE」を観にジャック・アンド・ベティへ行った。
「FAKE」は、いつぞやにワイドショーとかを賑わせた耳の聞こえない作曲家、佐村河内守を追ったドキュメンタリーである。全編ハンドカメラみたいなので撮られているので手ブレがあって酔う。かつ、映画の大半は薄暗い佐村河内の自宅で撮影されている。ただでさえ暗い映画館で観ているのに、さらに暗いので眠くなる。
似たようなシーンが延々と繰り返される。撮影者の森がマンションのエレベーターに乗り、降りたらすぐに左折し2つ目だか3つ目だかの家のドアにたどり着き、そこで佐村河内の妻に挨拶し、自宅に入る。薄暗いリビングのテーブルで、妻を事実上の通訳の状態にしてインタビューが行われたり、佐村河内が小馬鹿にされているワイドショーやバラエティ、あるいは彼のゴーストライターとして名前があがり一躍時の人となった新垣隆がテレビや雑誌で「チヤホヤ」されているのを観て、虫の居所が悪そうな佐村河内がいろいろ話したりする。たまにベランダに出てタバコを吸う。たまにメディアの人間が佐村河内の家を訪問し、番組出演の依頼をしたり、インタビューをしたりする。そういう場面には決まって妻が買ってきたのであろうケーキがあり、たまに青みがかった毛色がいかにも金持ちの家にいそうな感じの猫が画面に映る。
佐村河内は、取材や番組出演依頼に来るメディア関係者たちに対し、過剰に拒絶反応を示す。まあそもそも耳が聞こえなく、しかもその上で作曲家をやっており、しかも実はその作曲は人任せだったということが暴露され、全日本から総叩かれしてる人間の気持ちなど、僕には想像してもやっぱりリアリティがなさすぎる。佐村河内本人からすれば「過剰なわけないだろう!」という気持ちなのだろうが、やっぱり僕には過剰な拒絶反応に見える。まあでも、よくわかんないめちゃめちゃな状況のなかだとそういうふうになってしまうのは仕方ないのかもしれないとも思う。
佐村河内は奇妙である。異常に豆乳が好きで、妻がつくってくれた夕食のハンバーグを食べる前にも、長い時間かけて豆乳を1リットルほど飲む。それから、妻とは時間差で、おそらくもう冷めているであろうハンバーグを食べる。耳が聞こえる、聞こえないということについて語るときには、唐突に「昔聴いた音楽の記憶が頭にある」というアピールをしはじめ、その証拠にと言って「トルコ行進曲」を頬を叩いて再現しだす。口を大きく開け、少し首を上げながら頬を叩いてポコポコした音を、なんだか少し自慢気に鳴らし続ける佐村河内を見ていると、なんだかむずかゆい気持ちになる。館内では客から笑いが起こるシーンもいくつかあった。胸が痛い。
佐村河内はサングラスをしているイメージがとても強いが、どうやら強い光が苦手なようである。そのため常に部屋は薄暗く、明るい場所に行くときにはサングラスをしているようだ。佐村河内は強い光で頭が痛くなるらしい。それが耳の障害とどうつながっているのかはよくわからない。それから、常に左手の小指と薬指には包帯かシップか何かを巻いている。腱鞘炎かなにかなのかもしれない。いたずらかなにかで佐村河内の家の前にあった消火器がマンションの外に投げ捨てられていたことがあったというシーンでは、執拗に佐村河内の包帯の巻かれた指がアップで映される。
佐村河内の妻もまた、不思議な存在である。数少ない登場人物だが、いまいちどういう人間なのかよくわからない。佐村河内は、妻を愛している。唯一の外出だったと思うが、名古屋に行くシーンでは、佐村河内はずっと妻と腕を組んでいる。まるで母親に守られた子どものようなどこか不安定な足取り。妻は、佐村河内の仕事内容について一切関知していない。家ではたくさんの取材や出演依頼があっても、必ずと言っていいほど妻が手話などを用いて「通訳」として入っていたため、仕事でも同様に妻が介入してコミュニケーションをとっていたのだろうな…と、佐村河内について何も知らなかった僕は思い込んで見ていたのだが、どうやら違うらしい。
途中、アメリカのメディアの取材のシーンがある。この取材のシーンでは、アメリカ人の取材者がまず英語で質問を話す→通訳が英語を日本語に訳す→その日本語を妻が手話などの形で「訳」し、佐村河内に伝える→佐村河内が質問に答える→通訳が佐村河内の答えを英訳し取材者に伝える…ということでなんとかコミュニケーションが成立している。一個のやりとりが時間がかかるにもかかわらず、質問攻めが行われる。この取材のシーンで、アメリカ人取材者は核心に迫る。「新垣さんが作曲しているという証拠はいくらでもある。しかし佐村河内さんが実際に作曲しているという証拠はない。指示書があるのはわかるが、その指示書がどう音楽に変わるのか、その瞬間は誰も見ていない」。
この言葉がそのまま、ラストシーンへとつながっていく。本当は誰にも言っちゃいけないはずの12分のラストシーンだが、めんどくさいので覚えている限りでそのまま書くと、森監督はこの取材のあと、音楽活動を長らく休止していた佐村河内に対し「また音楽をやりませんか」と告げる。佐村河内はこれに呼応するように機材を購入し、薄暗い自室にこもり作曲活動をするように。最後に完成した音楽が、チープなMIDI音源で再生されていくのを、私たちは森監督と、佐村河内の妻とともに、聴くことになる。佐村河内がつくった音楽がそのままエンドロールのBGMとして流れ、エンドロールが明けると、まだ少しカメラが回っている。佐村河内の音楽を聴いている妻が映される。佐村河内に「愛している」と直接言われたときには涙を流していたのだが、このときはどこか虚ろな表情。何かを握りしめた手のなかには、薄暗い部屋だからこそ、不自然な白い光があることがわかる。その光が、一体なにによるものなのかは、よくわからないまま。このあと森監督は佐村河内に対し、「いいシーンが撮れました。奥さんとのふたりのシーンが撮りたかった」みたいなことを言って、映画は終幕する。
すごく不気味な終わり方で後味が悪かったし、感想ブログとかをひととおりあたったりしたのだが、ラストの妻の手の内で光る何かに関する言及があったのは確か飯田一史と藤田直哉の対談くらいで、しかもこれと合わせて飯田一史のYahoo!の記事も合わせて読むと、佐村河内がボコボコにぶん殴られていて、さすがにかわいそうになってきた。なんか論じたいと思って書き始めたはいいものの、鬱になってきたので終わりにします。